読書メモ- 走ることについて語るときに僕が語ること

こんばんは、smabizです!

最近、痩せるためにジョギングをはじめました。

週末に地元の図書館でターザンのランニング特集をパラパラと読んでいたところ、ランナーたちのバイブルというふれこみで、村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」が紹介されてました。

村上春樹が「走ること」について何を語るのか興味をもち読んでみました。

読んでみて、僕は「スモビズで成功するために身体能力を整え、向上させる」ために、「走ること」についてまじめに取り組んでみようと思いました。

村上春樹氏にとって「走ること」は、ライフワークであり小説を書くことと同じくらい彼の人生において大事な要素であることがよくわかりました。

本書の中で「走ること」のメリットとして以下の2点を挙げています。

他の人でも言っていることかもしれませんが素晴らしい小説を継続的に発表している村上春樹が言うと、説得力あります。

  1. エクササイズによる体力と精神力の向上
  2. 人生・仕事の良いメタファー

長距離走は、以下のような要素があり人生・仕事における苦しみやそれに対する対応など類似した経験を長距離走で獲得することができる。その経験による示唆を自分の人生・仕事にフィードバックすることができることだと理解しました。

  • 苦痛は前提条件
  • 苦しみに耐えるそして乗り越える、そのプロセスを味わい楽しむ
  • 能力を努力によって少しずつ向上させる
  • 目標を自分で設定して、それに向かって努力する
  • 昨日の自分と比較する(他人ではなく)
  • 自分と勝負する(他人ではなく)

僕にとってはスモビズが、村上春樹にとっての小説を書くということでありスモビズを立ち上げてやっていくことの心構えが少しはできた気がします。

上記のことは頭ではわかっていても本当の意味で理解するのは難しいと思います。「走ること」は頭だけでなく苦痛を伴った自分の身体を使った活動であり、それらを身をもって理解することができます。

以下では感銘を受けた文章について切り抜いて(たくさんあった中から厳選しています)勝手にその文章に題をつけています。

自分にとっての備忘のためですが、いい文章なのでこのブログ読んだくださった方にも紹介したいものです。

人生のメタファーとして走ることの意味(=人生の意味)

 一般的なランナーの多くは、「今回はこれくらいのタイムで走ろう」とあらかじめ個人的目標を決めてレースに挑む。そのタイム内で走ることができれば、彼/彼女は「何かを達成した」ということになるし、もし走れなければ、「何かが達成できなかった」ことになる。もしタイム内で走れなかったとしても、やれる限りのことはやったという満足感なり、次につながっていくポジティブな手応えがあれば、また何かしらの大きな発見のようなものがあれば、たぶんそれはひとつの達成になるだろう。言い換えれば、走り終えて自分に誇り(あるいは誇りに似たもの)が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとって大事な基準になる。

 同じことが仕事についても言える。小説家という職業にー少なくとも僕にとってはということだけれどー勝ち負けはない。発売部数や、文学賞や、批評の良し悪しは達成のひとつの目安になるかもしれないが、本質的な問題とは言えない。書いたものが自分の設定した基準に到達できているかいないかというのが何よりも大事になってくるし、それは簡単には言い訳のきかないことだ。他人に対しては何とでも適当に説明できるだろう。しかし自分自身の心をごまかすことはできない。そういう意味で小説を書くことは、フル・マラソンを走るのに似ている。基本的なことを言えば、創作者にとって、そのモチベーションは自らの中に静かに確実に存在するものであって、外部にかたちや基準を求めるべきではない。

 走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成規準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。少なくとも高めようと志し、そのために日々努めていた。僕はもちろんたいしたランナーではない。走り手としてはきわめて平凡なーむしろ凡庸というべきだろうーレベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。

 同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。

批判や腹立たしことへの対処方法(村上春樹の場合)

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って吞み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。

ジャズ・クラブのような店の経営哲学

 失敗したらあとがないから死にものぐるいでがんばった、というだけだと思う。勤勉で我慢強く体力があるというのが、昔も今も僕の唯一の取り柄である。

 しかしその「一人」には確実に、とことん気に入ってもらう必要がある。そしてそのためには経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。それが店の経営から身をもって学んだことだった。

レーニングによる能力の向上

 このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前にも書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間によって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとして体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。

苦痛=生きている実感はそのプロセスにあり

 もちろん肉体的には苦しかったし、精神的にへこんでしまいそうな局面も時としてあった。でも「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう?苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

墓碑銘

 個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした。耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的なーどんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的なー教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか納得のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に接近することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。

 もし僕の墓碑銘なんてものがあるとして、その文句を自分で選ぶことができるのなら、このように刻んでもらいたいと思う。

 

村上春樹

作家(そしてランナー)

1949-20**

少なくとも最後まで歩かなかった

今のところ、それが僕の望んでいることだ。